だいばにっき

嗜好品と思いつきに揺られて

2016/11/11の断想

東京と過去と坂(オチのない話)
 
僕の故郷の街には、さびついた商店街があります。僕が小さな頃には既に店店にはシャッターが降りていて、唯一開いている駄菓子屋に行っては1つ10円のきなこ飴をわくわくしながら食べたものです。
 
大学に入ってからは東京に住むようになりました。
そこには僕の想像通り、ガラス張りで背の高い、スカした面もちの建物や、煉瓦づくりのどっしりした建物(内田ゴシックに憧れていました)がいくつもいくつもありました。そして何より、活気のある人々がいました。
 
驚きでした。どこにいっても人がいるのです。脇道の奥にある喫茶店のソファにも、コンクリが入り組んだ駅のじめじめした地下道にも、だれかがいます。もちろん、商店街にもたくさんの人が買い物に冷やかしに歩いたり止まったり、時々話したりしていました。
 
こんなに人がいるので景気が良いのか、商店街にシャッターが降りるのは夜だけで、立ち並ぶ凝った街灯に明かりを頼りながら、店店の店員が片付けを急ぐ様子をよく見たものです。
 
そんな商店街を歩いていると、ふと故郷の商店街が浮かぶのです。そして、過ぎてしまった年月、商店街の活気とその衰退の姿の間にある錆ゆく年月を感じるのです。
東京は時間が止まったままのような街路が沢山存在します。昭和のある日に街をそのまま大きな瓶に詰めて、しっかり蓋をして納戸にしまっていたけれど、今日パコンと蓋を開けました、というような、そんな空気を感じます。その瓶はベニヤと微かな排ガスの匂いがします。
 
そんな商店街で過去をひとしきり堪能したあとは、山手線に乗ってぐるぐると、時間と空間の起伏を楽しむのです。
 
ところで、僕の故郷には坂がありません。この山脈国にありながら、最も平坦な土地が続くところです。ときどき遠くに見える水色がかった山々は、ある種の蜃気楼のようなもので、いくら歩いても近づくことはありませんでした。
 
東京には坂があります。それは太古の昔に海があった名残であり、ゆるやかな坂にへばりつくように家々が並んでいます。
 
そんな中で暮らしていると、坂によって変わる景色、時々急に視界が開け、西の山脈に朱色の鮮やかな雲が遠く流れているのが見えます。そしてその山脈の暗い陰の手前には、池袋か新宿のビルディングが、自身の四角い明かりに夕日の欠片を反射して、静かに光っているのが見えるのです。